第二次世界大戦後の世界はこれまで個々の国家と地域に共通する価値観と行動原則をそれぞれのテリトリーの中での共通価値観として動いてきた。
西側諸国は資本主義と民主主義、東側諸国は社会主義と一党独裁、その他は軍政や内乱というような状態が入り乱れていたが、それぞれの価値観が真に衝突したのは米ロ冷戦とイスラエルとアラブ諸国との紛争程度であった。
その後、冷戦の終了とともに国際紛争は下火になるかと思われたが、2010年は改めて国家間紛争がエスカレートするよう見えだした年となった。
しかしその根底にあるのは国家間紛争ではなく国家と市民の価値観の対立であり、市民と国家の対立から市民の目をくらますために国家間の紛争を演出していると見る方が真実に近い。
911はイスラムと西側との対立ではなく、国益の名のもとであれば他国の(特に西側でない)市民をご都合主義で殺戮する事も躊躇しない国家主義への一部の過激市民からの反発であったと理解すべきだ。
無人攻撃機を遠隔地より操縦して一般市民を殺戮する米国にはどのような理屈をつけようとも市民の理解は得られない。
何度も世界を脅し続けるほどのならず者国家である北朝鮮に軍事行動を取る事をしないにもかかわらず、核兵器さえ保有していない(と考えられている)イランには空爆も辞さずと脅しをかける行為に理は無い。
これまではこのようなご都合主義であっても世界平和に責任のある米国と西側諸国の戦略と考えていた世界市民も、今となっては真実に気付きはじめたようだ。
イスラム教であれキリスト教であれ、どの信者でも人間として共通する事がある。
人は裏切り続けられれば怒りをもつ。
嘘をつかれ続ければ信用しなくなる。
正しいと思う事が権力により都合よく捻じ曲げられ続ければ正しい事を行う意思をなくす。
このような気持ちは宗教を超えて全人類に共通する。
いかなる政府であれ権力者であれ、市民に見抜かれれば終りを迎える。
世界市民はこれまでにも、ひょっとすると世界は最強の力を持つ事が全ての価値に優先すると信じる者に率いられているのではないかと感じていた。
そして自身もそのようになれるのであれば正義などはどこかにおいてきても構わないと考えたようだ。
世界同時不況は救済されるものとされないものを現実に見せてしまった。正義はやはり必要であったことを思い出させる一因であった。
民主主義の唯一の行使方法は選挙である。
それ以外は見せかけでしかない。
よって選挙が市民の意思を伝えるものであるうちは(選挙制度が機能することと、しかるべき立候補者が存在するという前提で)最後の希望が残っていた。
しかし2010年のイラン、アフガニスタン、コンゴ、コートジボアール、ベラルーシ、ミヤンマー、ハイチ、などの国々の選挙において権力者が選挙で国家的不正を行い国連をはじめとする国際機関や米国も多大な関心を示す事ことが無くなった事は民主主義の大きな危機である。
市民は怒っている。
そして来るべき危機を統治者よりも深刻に感じている。
台風・地震などの自然災害でも例外なく最も打撃を受けるのは最貧層である。
アフガンの市民にとって己を殺す可能性の高いのはタリバンなのか多国籍軍なのか?
経済危機で責任を取るのは大金融機関や官僚なのかはたまた市民なのか?
答えは全て市民に分が悪いようだ。
どの国の政治家も市民の将来よりも自身の保身に重きを置いているように見えてしまった。
世界市民はそれぞれに自身を統治している国家に対して怒りを高めている。
そしてそれをうまく言いくるめようとすればするほど市民の無力感は高じてくる。
高まった無力感の行きつく先がテロとなる。
市民はテロという言葉の使われ方にも胡散臭さをかぎ取っている、テロとは国家に対する抗議の事で国家から市民への暴力はテロとは呼ばないという事も含めてだ。
国益や国境などは本当に市民が気にしている事であろうか?
市民は安全にそして安心して生活ができる事のみを願っているにすぎない。
国益や国境などはそのために必要だと統治者が言うがためにそれが変化してはならないものだと思い込まされているだけである。
国益や国家を普遍だと考えたいのは統治者だけである。
卑近な例でいえば市町村合併で誰が反対したか?
椅子が少なくなることを心配した政治家と役人だけである。
市民はそれで暮らし向きが悪くならなければ反対する理由は無いのである。
これは国家間でも同じことである。
お互いに殺戮し合っている国家の市民はれ以外として、ほとんどの市民は国境の普遍性に興味はない。
ユーロ圏成立を見ても反対した市民の動機は一部を除いて暮らしに対する不安感からであろう。
それでは市民と国家の対立の根底は何か?
それは安全とより良い暮らし向きのためには国境など意味が無いと考える市民と、既得権益を保持し続けたい統治者との対立である。
言い換えると新しい地球規模の市民国家を受け入れる準備ができつつある市民と、それを受け入れることなど空想の産物としてもあり得ないと考える旧人類である統治者の対立である。
核兵器・バイオテクノロジー・宇宙開発・特許・著作権・天然資源・罪と罰の概念…、 現在はこれらの概念がそれぞれの国と地域によって異なっている。
そしてそれは当然の事として受け入れられている。
ここで簡単な疑問がある。
はたしてそれは当然の事なのか? 答えはこうだ。
もしかつてのようにそれぞれの国と地域が今ほど密接に関連しあっていなければそれぞれ別の概念が存在しえた。
しかし今ではあまりにもそれぞれの市民社会が密接に関連しあってきたためそれら概念も共通のものであることが必要となってしまった。
そしてそれらの概念が共通になるならば国境も消滅することになるのは自明である。
そのような考えに納得がいけば現在では解決できないような問題にも新たに概念が明確化される。
例えば核兵器である。
地球上だけの事を考えれば廃絶すれば良いのかもしれない、しかし一撃で地上の生命を吹き飛ばす威力の天体の衝突リスクが数年以上のスパンでは予想もできないことが事実であるとすれば、その天体にダメージを与えることができるかもしれない核兵器を廃絶するなど馬鹿げた考え以外の何物でもない。
ただしそのような人類のための使用を前提にすれば、地上の全ての核兵器は国際連盟的な組織あいは地球政府により一括管理されるべきであろう。
そうなれば現在核兵器を開発している国家は自己の意思でその開発を停止するであろう。
現在の対立の構図はイスラエルとパレスチナを見てみれば良く理解できる。
この対立を人種問題・宗教問題・文化対立などと考えれば解決はつかない。
そのような事を口に出す人間は心の底では対立の継続から得る利益を守りたい人間であろう。
彼らの対立を解消するには2つしかない、暴力をエスカレートさせ共に滅亡させる道が一つ、もう一つは「異なる」事をやめると決めることだ。
異なるから対立するのであれば異なることをやめれば対立できなくなるのである。
その方法はいたって簡単で且つ平和的である、ユダヤ人とパレスチナ人のそれぞれの結婚相手は国家が一つになるまでは、ユダヤ人とパレスチナ人の組み合わせ以外認めないと2カ国が決めるだけで済む。
数十年で対立は霧散する。
無差別に市民を殺戮し合う人権蹂躙と結婚相手の人種を法律で決める人権蹂躙と何れが比較的ましであるかは誰にでも判る事であろう。
誤解なきよう願いたいが、これはそのような法律を作るべきということではなく、現在の対立は「異なる」事を意識させられていることから来ていると言いたいだけである。
極めてSF的ではあるが、近未来の真実は何らかの理由で人類は宇宙に出るということだ。
そのためには多大な投資に基づく準備が必要である。
現在は一部の国家が宇宙開発競争を行っているがそれらの基になっているのは人類の英知である、決して米国人やロシア人や中国人だけで積み重ねてきた英知では無いのである。
その英知を使って人類全てのために準備をし、開発をしなくてはならない。
人類全てが宇宙という新しいフロンティアを実感すれば人類は再び将来に向かって希望を持って進んでいけることになる。
もしそれができなければ地域と国家間の対立の中で終焉を迎えることになる。
今後の世界は国境と「異なること」を維持したい統治者にとってはつらいものになるであろう。
もちろん世界市民にとっては長い戦いになる。
現代の皮肉は統治者と市民との先進性の認識と実際の逆転である。
|