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ネコティアスの時事コラム

2011年03月03日

ネコティアス
「大人の国」と「子供の国」のどちらを選ぶのか?
-自らがどちらであるのかを選ぶことから全てが始まる-

 

大人の国であれば…

  • 国民は自己責任を取るべきだ
  • 国家は国民の自由を侵害してはいけない
  • 権利と義務が同量存在するべきだ
  • 政治が悪い、とは言えないはずだ
  • 言論には自由があるはずだ
  • 軍隊を国民の意思で持つはずだ
  • 法律の行使に被害者の心情が強く反映される事はないであろう
  • 自己責任原則と消費者保護(投資家保護)では自己責任原則がより高次のルールとなろう
  • 老人の年金よりも若者への教育投資を重要と考えるであろう
  • 市民は積極的に社会参加し時には国家と対峙しなければ国家が腐敗することを理解しているはずだ
  • 自民党も民主党もだめだとなれば自らが行動を起こすであろう
  • 市民は個人の力を信じているであろう
  • 市民は国家に対する完全な非武装を認めないであろう
  • 刹那的な自爆テロリストを醸成する事は少ないであろう
  • 言葉よりも行動で国家や市民を評価するであろう
  • 戦争責任であれどのような行動に伴う結果であれ、その原因は明確にすることを将来の発展の基礎だと考えるであろう
  • 皆で同じことをするのは時と場合によっては危険であることを理解するであろう
  • 宗教や道徳規範は市民社会にとって必要なものであることを理解するであろう
  • 権力者に対しては畏怖と尊敬の念を感じて生活をするはずだ
  • 家族と社会は関わり方がおのずと異なると理解されているはずだ
  • 自国民と外国人のかかわりを真剣に受け止める事ができるはずである
  • 子供を育て、弱いものは守るはずである

子供の国であれば…

  • 国民は自己責任を取ることはできないので、保護者を頼るしかない
  • 国家は国民を保護するためにその自由をある程度は侵害してもしようがない
  • 権利のほうが義務より大きいはずだ
  • 政治が悪い、と言っても当然だ
  • 言論には保護者に対しては完全な自由はない
  • 軍隊を国民の意思で持つなどあり得ないはずだ
  • 法律の行使に被害者の心情が強く反映される事は十分に考えられる
  • 自己責任原則と消費者保護(投資家保護)では自己責任原則は保護者が義務を放棄したい場合にのみ出現するであろう
  • 老人の年金のほうが若者への教育投資などよりもはるかに重要と考えられるであろう
  • 市民は保護者としての国家に対してお願いと諦めはあっても、国家と対峙するという選択は考慮の埒外にあるはずだ
  • 自民党も民主党もだめだとなれば、それを嘆き悲しみ、「誰か出てこないと日本はだめになる」と新たな保護者の出現を求めるのみであろう
  • 市民は個人の力は無力であると信じているであろう
  • 市民は国家に対する完全な非武装を喜んで受け入れるであろう
  • 刹那的な自爆テロリストを醸成する可能性は高いであろう
  • 言葉だけで簡単に国家や市民を評価するであろう
  • 戦争責任でさえ明確に過去を振り返り評価することは、将来の自身の行動が束縛される事になる恐れがある場合は特に何もしないであろう
  • 皆で同じことをするのは常に心安らかであると感じるであろう
  • そもそも保護者の存在が前提であるため、それ以外の宗教や道徳規範は市民社会にとって特段必要とは言えないと感じるであろう
  • 保護者は派権力者とは似てはいるが無慈悲な支配者ではないと感じている為に、権力者に対しても保護者と同様に強い畏怖と尊敬の念は感じないであろう
  • 国家が国民の保護者であるかのように感じている為に家族と社会の関わり方にはあまり差がないはずである
  • 外国人を他人か大人と考えることにより、自国民と外国人のかかわりを公平に受け止める事ができないはずだ
  • 子供を含め弱いものをいじめるはずだ

 さて、日本はどちらにより近いのであろうか?  やはり子供の国であろう。
 太平洋戦争終結後に占領軍により憲法が制定され米国の間接的支配の下で復興を遂げてきたのであるから、「子供の国」であることを強制されてきたのは歴史的事実であろう。 ただしその後国民が「子供の国」を脱して「大人の国」を目指した気配はない。 ただなんとなく「大人になった気」がしているだけで、明確に選択した訳ではないのであるから、この国の社会通念は子供向けでしかない。 そもそも歴史的に見て国民が「大人の国」を求めた事があるかどうかはかなり疑わしい。

 「大人の国の論理を表面だけでしゃべる知識人」や「大人の国のけじめを知らない役人や政治家」、はたまた「子供の国の論理で政治家を選び子育てをする市民」が住むこの国が「大人の国」を目指す事がはたして可能なのか?

 戦後の復興期には少なくとも一部役人や政治家や企業家やマスメディアや市民に「大人の国」を目指す意思を持った人物がいたのかもしれないが、今となっては元の黙阿弥、役人も政治家も企業家もマスメディアも市民も全て「子供の国」の住民になってしまった。  そして最悪なことに「若い子供」ではなく「年をとった醜悪な子供」になってしまった。 そして醜悪な子供が自身の延命のみを命題として若い子供をいじめる社会は見るに堪えない。

 我々日本人は歴史上初めてかもしれないが、まず初めに「大人の国」を形成することを明確な目的として持つことを決断しないと、全ての議論がザルで水をすくうがごとく時間の無駄となるであろう。  つまりまたしても、ただ単に保護者が良い人である場合は幸福になり、そうでない場合は不幸を諦めで受け止めるだけになる。

 

以 上
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